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小説

悪童日記

投稿日:2017年12月10日 更新日:

小さいころ、「あしながおじさん」より「赤毛のアン」より「小公女」よりも、「長くつ下のピッピ」が好きだった。

世界一強い女の子、ピッピの物語。

「あしながおじさん」のある日突然自分を今の世界から連れ出してくれる謎の人物、しかもそれがイケメン紳士とくればもちろんキャーって思わないわけがないし、「赤毛のアン」の劣等感を空想力(妄想力といってもいい)に変えて楽しく生きていく姿勢には共感を覚える。ちなみに「小公女」で一番好きなシーンは、おまけでもらった焼きたてのパンをポケットに入れ自分のポケットにはたべきれないほどたくさんのパンがあると空想しながら、ポケットのたった一つのパンをちびちびちぎって口に入れながら歩くシーンだった。ちなみにお金がないときにコンビニのパンを使って何度か真似したことがあるけれど、なかなか楽しい気分になれた。空想力は人間の最大の財産だよね。

ちなみにその小公女が食べたパンはアンパンだとずっと記憶していたのだけれど、時代背景的にアンパンのはずないと今書いててようやく気づいた。そんなところにいきなりジャポニズムを発揮しないだろうと思うし、そもそも小公女が書かれた19世紀にはそもそもアンパン自体がまだ発明されていなかったのではなかろうか(※)。私の記憶違いか、はたまた訳者の子供向けアレンジか。

いきなり話が大きくそれてしまったけれど、とにかく、並み居る名作数あれど、児童向け、特に女児向けの海外文学のなかで、一番好きだったのは「長くつ下のピッピ」だった。詳しい内容はとうに忘れてしまったけれど、おかしなかっこうをした破天荒で乱暴なピッピという女の子が、いわゆる「良識的な」ひとたちの眉をひそめさせながらも、楽しく、冒険的な毎日を過ごす物語は、ずっと私の憧れだった。

とはいえいつのまにやらピッピのことは忘れていて、最近、そういえば昔好きだったからな、と、読み返してみた。昔あれほど私をワクワクさせた物語は、なんだかありふれた話に変わっていた。ピッピが、記憶のなかの物語とは違っていた、ということではない。ピッピは昔のままで、変わったのは私のほうだ。好きなときに好きなところへ行き、好きなものを買い、好きなことをし、好きなことを言って、好きな人と好きなように過ごす。そんなピッピに憧れたけれど、それは、大人なら、誰もが許されていることだ。幼いころ、ピッピがとても破天荒で常識はずれで自由で冒険的で英雄的に見えたのは、ピッピが自分と同じ「子供」だったからなんだろう、と、そう思った。

それからしばらくして、「ああ、これって、”邪悪な”長くつ下のピッピだな」という感想を抱いた本が、この本だった。

邪悪、というと聞こえが悪いかもしれないがあえて言いたい。子供が邪悪であるということは、そうならなければいけない事情があったということであり、そこには大抵の場合悲しみが伴う。

実はこの本は先に書評を読む機会があり、それで興味を持って購入したので、大体の話の内容は分かっていた。実は小説というものを最近あまり読まない。大抵の場合において小説というのは、物語の秘密や結末を知りたくて読み進めるものだと思うけれども、本を読むのにはそれなりの時間がかかる。これは本当に面白い小説だろうか? 途中までは面白くても、最後でご都合主義のがっかりした展開にならないだろうか? そんなことが心配で調べているうちにいつの間にかネタバレに近い情報を得て、読み終えた気になってしまうことがほとんどだ。

なので、「悪童日記」についても、物語の集大成である結末部分についてはあまり驚きはなかった。むしろ驚いたのは、中盤から後半にかけて頻繁に差し込まれる性に関する描写だ。

物語のかなり冒頭に近いところで宣言されるように、この文章には双子の少年たちの感情的な言葉は記されない。ただ「彼らの目から見た事実」のみが淡々と記され、彼らの気持ちはその記述された事実、彼らがその事実を記述すべきとして選び取ったという状況から推測していくしかない。性的な描写が出てくるまでの主人公の双子の少年に対する印象は「戦時下で厳しい状況のなか、世の中の理不尽に直面しつつ周囲の大人たちの顰蹙をかいながらも、自分たちなりに工夫し、周囲にはわからない楽しみのなかで生きている愉快な少年たち」というもので、まさに児童文学を読むような気持ちで読んでいた。けれど、彼らの周囲に性に関する香りが漂い、やがては彼ら自身がそこへ身を投じていくにあたり、ようやく、ああ、これは、児童文学などではないんだなと思い知らされた。

子供の世界はあたたかく、やわらかく、やさしい。大人の世界は、猥雑で、理不尽で、悲しい。けれど世の中とは本来そうしたもので、子供の世界が優しく見えるのは周囲の大人がそうなるように守ってあげているからだ。守ってくれる存在を失い、いやおうなく現実世界に、大人の世界に放り出されてしまった子供がどう生きるのか。どう生きていかざるをえないのか。悪童日記は、そういう物語だった。

とはいっても、双子はうまくやっている。そこはいわゆるフィクションのご都合さだ。胸糞悪い展開はありながらも最後まで楽しませてはくれる。本当に守ってくれる存在をものをなくした子供がどうなるのかは、たとえば「浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―」を読めばいい。家を焼かれ、親が生きているのかどうかすらわからず、空腹のあまり頭がおかしくなって自分の排泄物を食し、突然川に飛び込む子供たちに比べれば、おばあちゃんから知恵と家をさずかり、美貌も頭脳も持ち合わせている双子は、それでもかなり恵まれているほうだ。

極限下では、人は邪悪にならざるをえない。賢く立ち回るということは時に正直さや善良さにそむくこともある。自分が生きていくために。悪童日記のなかでは、まだ子供であるふたりの少年を性愛の対象として扱う唾棄すべき男が、むしろ頼もしく、親切で、己をわきまえた心豊かな人間であるようにさえ感じられる。

そう考えると、ピッピはしょせん、大人の世界の規律が守られている、あたたかく守られた世界のなかでだけ成立する物語なのかもしれない。もしもピッピが悪童物語のなかの登場人物だとしたら、たとえば、双子のいとこの女の子みたいに見えるのかもしれない。元気とやる気はあるけれど、現実を知らずわがままに夢ばかり見ている危なっかしい女の子。

けれど、悪童物語のなかでこの「愚かな」いとこの女の子を、あるいは兎っ子を、双子は無償で守ってあげている。

読んでいるときは、「主人公の双子は悪人ではない」ということの象徴としてこのエピソードが差し込まれていると思っていたのだけれど、もしかしたら双子は、いとこや兎っ子を通じて、自分たちが早々に失くしてしまった「守られている、あたたかくて優しい、子供の物語」を、自分の近くにおいておきたかったのかもしれない。

※今調べたら、アンパンが発明されたのが1874年で小公女が発表されたのが1888年ごろみたいなので、いちおう時系列的には原作にアンパン描写があるのも絶対に不可能とはいえないみたいなんだけど…絶対ではないけど、多分ないよな、と思う。

ついでに思い出したので

時代的には同じくらいですよね。

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