とてもとても好きなシリーズ。あるあるものとして感情移入しきるには主人公が破天荒すぎるけれど(笑)、昔まわりにいた「変わった人たち」をなんだか懐かしく思い出す。みんな今どうしているんだろうか。
1巻:小学生時代
私がこの本を読んだきっかけは、なにかの広告で見たこのセリフだった。
私きっと、
山本さんの人生の脇役として生まれてきたんだと思う。
いったいどんな人生を歩んできたらこんなことを言い出すんだろうと思った。
それを言った岡崎さんと、作者の現し身である山本さんが仲良くなったきっかけは、岡崎さんちではゲームがやりほうだいだからという極めて即物的な理由だ。
岡崎さんちはいつも散らかっていて、お父さんもお母さんも何をしている人たちなのかよくわからない。子供が深夜までゲームをしていても誰もとめない。岡崎さんは、お風呂には毎日入るものだということも歯磨きは毎日するものだということも知らずに育った。それを岡崎さんに教えたのは学校の友達で、岡崎さんの妹に教えたのは岡崎さんだ。
作者の山本さんは、作中でもこの状態を早々に
大人になってよく考えてみると岡崎さん(+妹)は育児放棄(ネグレクト)されていたんだと思う。
とはっきり書く。そしてその後もこの状態が改善されることはない。
いわゆる毒親、というやつなのかもしれないけれど、
茹でたパスタにケチャップをかけただけのものとはいえいちおう食事らしいものは作ってくれるし、家の中に完全に食べ物がないというわけではない。
その後の岡崎さんと妹を見る限りも、家にはある程度の財力もあるしお金も出してくれるのだろうし、子供を邪魔に思っているような様子もみかけられない。ただ、自分の子供というものに、あるいはいわゆる”普通の生活”というものに、親がただただ無関心なのだ。
床に落ちてる物を着て床に落ちている物にくるまって寝る生活
小学生の私はこれが本当の”自由”だと思った
決して肯定できる話ではないし、作者本人もこれを肯定的に書いているわけではない。
ただ、はっきりと否定してもいない。
そこに悲壮感は感じられない。
岡崎さん、山本さん、あるいは他の子供たちは、大人の無関心と無配慮の隙間にぽかりと空いたカオスな空間のなかで、パワフルな子供時代を過ごしていく。
ちなみに岡崎さんと山本さんが二人でゲームをしているところは、昔本屋ではじめてこの本のタイトルを見たときに、すごくドキドキしたことを思い出した。
大人になった今となっては夜は眠いし寝たい。子供はやることもなく夜は寝られていいなと思う。
だけど、夜の闇の向こうに、遠いあの景色の向こうに、自分の知らない何か特別なものがこの世界にはあるのだと、漠然とそう信じている時代がたしかにあった。
2巻:中学生時代
中学になっても岡崎さんと一緒の山本さん。
山本さんも含め周囲に順調に中2病患者が増えていくなか、岡崎さんは変わらず山本さんの近くにいてくれる。
この2巻の中に、すごく好きなエピソードがある。
作者(山本さん)は自分が描いた漫画やイラストを学校の教室に貼り出していた。
周囲の生徒たちの間で評判になり楽しみにしてくれる子もいたが、教室に漫画を貼ることを非難する先生もいる。
しかし、別の先生のなかにはその非難と戦ってくれる人もいて、最後まで描き続けることができた。
ある先生は、転勤する際に、こっそり山本さんにあるものを渡した。そこにはクロッキー帳と、メモが入っていて。そのメモには、
いつまでも楽しく絵を描いてください
とあった。
けれどそれを読んだ中学生の作者(山本さん)は
絵を描くのが楽しいなんて当たり前なのに。
変なのー。
と一笑に伏し、忘れてしまう。
そしてそれを、現在の作者さんは、こう述懐する。
私はこの時まだこのプレゼントの意味とか、先生の気持ちとか、よく理解できなかった。
昔好きだったものを、好きで続けていたはずのものを、いつまでたってもただ好きなままでいられることは難しい。それがわかっている人は好きで続けていることの貴重さを知っている。好きだったはずのことが嫌いになる日が来ることすら考えていない子を眩しく感じる。そして、できればその日が、自分には来てしまった好きだったことが嫌いになる日が、その子には来ないでくれればいいのにと願う。
中学時代の山本さんを庇ってくれた先生たちは、きっとそういう気持ちだったんだろう。
作者さんはこの頃、すごく人間関係に恵まれていたのだなあと思う。
3巻:高校生時代
高校になって、山本さんは岡崎さんと学校が分かれてしまう。
そして、周囲に合わせるのが苦痛で徐々に学校へ行かなくなり、一時は完全な不登校に陥る。
中学までの、陽気で破天荒で傍若無人極まる岡崎さんとはうって変わった衝撃的な展開だ。
岡崎さんと山本さん、読んでいても主にひっぱっていくのはいつも山本さんのほうだ。一見引っ張る側が主体であるかのように見えるけれど、その実は逆だ。なにがあっても、いつも後ろで岡崎さんがいる、なにをやってもなにを言ってもそこで自分の思う通りの反応を返してくれるからこそ、安心して前を向ける。岡崎さんがいるからこそ、山本さんは周囲を恐れず破天荒な振る舞いをすることができたんだろう。
いっぽうで岡崎さんは、淡々と高校生活をこなしていく。しかも、山本さんに誘われて全然別の高校の体育祭に紛れ込んでも、あっさりと周囲に馴染む。小学校時代、友達になりたくない人No.1だったという岡崎さんと同じ人とは思えない。
山本さんの影響で変わったんだという話であればとても美しいけれど、多分違うんだと思う。
岡崎さんはきっとただ、はじめから大人だったんだろう。
大人だったから、小学校の頃には子供の社会になじめなかったと、そういうことなんだと思う。
岡崎さんは人に何も求めない。
だから与えられなくても怒ったりしない。
子供である山本さんと一緒の時だけは、子供に戻ることができた。
けれど、3巻の終わりで、高校時代の山本さんはこう独白する。
私達は大人になる。
子どもでいられる時間はもうわずかだ。
……さて、4巻はどうなるのかな。
なお、最後のシーンは、耳をすませば、を彷彿とさせた。
早く一人前にならなきゃ、何者かにならなきゃ、と夢の中で焦るしずくのシーンを受験期に見た時には他人ごととは思えず胸が苦しかったことを思い出す。
まとめ
タイトルを見たときに、この岡崎さんはもう亡くなられているとか、二度と会えない状態になってしまったなんだろうな、と予想して読み始めた。
けれど作者さんのあとがきなどを読む限りは別にリアル岡崎さんは今も健勝で、仲良くやっているように見える。
でも「私の心の中の岡崎さんは元気です」ってオチだったら大ショックを受けるので、そこは油断せずに読んでいる。
1巻の一番はじめで「また明日!」と手を振り合っていたのが、今の岡崎さんなんだろうか。
なぜその時作者さんはうかない顔をしていたんだろうか。
大人になったからって子供時代よりつまらないことはない、というのは、作者さんが3巻のあとがきに書いている通りだと思う。
誰もいない映画館で上映が終わった白いスクリーンを眺めている私に「これエピソードⅡが出るよ」と伝えてあげたい。
大人になっても子供のような楽しさはある。
でも、それでも、子供時代というのはやはり特別だ。
なにもわかっていなかったからこその楽しさ。
その頃に一緒に笑い泣いた友達。
今ではおおっぴらに言えるようなことも当時は妙に気恥ずかしくて隠し、ごまかし。
そういう時代、思い出は、やはり他では変えがたい唯一無二のものだと思う。
岡崎さんの唐突な行動に笑かさせてもらいながらも、そういう懐かしいものを思い出させてくれた本だった。