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エッセイ

一度きりの大泉の話(萩尾望都)/少年の名はジルベール(竹宮惠子)

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前者は最近Amazonで見かけて、後者は数年前に読みました。このふたりをそれほど熱心においかけているわけではないけれども、偶然にもどちらも発売直後に出会えたのはなかなかの僥倖だと思っております。

で、ちょっと心が痛いので、以後はおふたりをそれぞれH先生、T先生、そして大泉サロンができるきっかけとなったかの人をMさんとして感想を書きたいと思うわけですが(意味のないイニシャルトークですが名前そのまま出すとマジで精神的につらそうなんで……自分が)

まず言っておきたいが、T先生はそんなに悪くないとオモ

本を読んでいる途中、さらに読み終えたあと「これはさぞやT先生が非難される流れ…」と思いましたが、案の定でしたよ。

いやさ、わかるよ。あの本を読んだ直後なら。でもさ。

ええと、あなたがた多分、少年の名はジルベールのほう読んでないで言ってますよね。

もしくは、読んでても内容あんまり覚えてないで言ってますよね

片方の話だけ聞いて赤の他人がしのごのいうのやめましょうよ、と。

(まあ両方の本読んだだけでこれから私も他人にしのごのいうんですが!)

もちろん、H先生がされたことはH先生視点においてすべて事実で、そしてそれはとてもショックな出来事だっただろうけれども、T先生にもそれに先んじて凄まじい葛藤があったんですぜ、と。H先生が、おそらくそのショックが原因で眼病を患い筆を折ることまで考えていたというのは驚きですが、いっぽうT先生もH先生への嫉妬のあまり深刻なスランプに陥り幻覚まで見はじめていたのですよ。

……ふたりともすさまじく繊細な感性の持ち主ですよね。

むき出しの魂で生きているという感じ。

嫉妬心から相手にきつくあたるのよくない! みたいなこと言う人も絶対いると思いますが、理由が嫉妬であれなんであれ、この人が近くにいると自分はダメになる、と思ったら距離を置くのは別に悪いことではないと思います。そしてこの場合、ハッキリ絶縁宣言しないと周囲の人間関係上距離が遠ざかってくれない、というケースだったように思いますし。T先生の精神的に、迂遠な手段をとる余裕がなく相手のことを考えられないようなコミュニケーションになってしまったのもやむなしで。H先生にはつらかったのでしょうが、T先生側にも悪気があったわけではない、という印象です。さらにT先生は、H先生のことを自分の内面世界に目を向け周囲にはあまり興味を持たない超然とした人と捉えていたふしがあり、自分が絶縁宣言しても何も思わないんだろう、くらいに考えて、弱った心から出たままの話をぶつけてしまったのではないかなとか。H先生がそれで眼病を患うほどショックを受ける、それだけ自分たちとの関係を大切に思ってくれている、とわかっていたら、そもそもT先生もそこまで思い悩まなかったのかもしれないという気がします。

ただ、私がT先生はそんなに悪くないのでは、というのは、上記が理由ではありません。詳しくはまた後で書きます。

ちなみにMさんもそんなには悪くないとオモ

そんなわけでH先生とT先生、ふたりのことだけなら映画アマデウスのモーツァルト(H先生)とサリエリ(T先生)に例えて考えればまさにあてはまるわけですが、そこにMさんという第三の女が存在することが話をややこしくしていたりするわけです。

私が受けた印象からして、Mさんは正直ちょっと面倒クサイ人で、熱心な漫画ファンと新人編集またはプロデューサー、そしてワナビの中間みたいな存在。で、彼女が言っているのは2軸+1軸あって、表の2軸は「少女漫画(家)の地位を高めるべき!」と「少年愛最高!」。そして裏の1軸が「自分は苦労しない、恥をかかないで、自分という存在がもっと世間に認められたい!」。

こう書くとすげえダメな子みたいですが、不動産の手配をしたり、スランプになったT先生を支えたのは彼女ですし、少年愛やらなにやらの流れ、そして当時の少女たちをうっとりさせたであろうリアルな現代欧州風異国情緒を少女漫画界に持ち込んだのは、まぎれもなく彼女の功績だと思います。ただ、残念なことに、H先生の本にもあるように、彼女は知識とエネルギーと彼女なりの世界観を持ってはいたものの、それを表現する方法を持ちあわせていなかった。あるいは、獲得できなかったし、する努力もしなかった。漫画でも、小説でも、音楽でも。あるいは映像でも、絵画でも。

そのため彼女は、自己表現をするために他人に寄生するしか方法がなかった。おしゃべりという方法で他人の精神に己のタネをまき、それを他人の技術力により花をさかせ結実させてもらうしか広く世に問う方法がない。

それに多少の戸惑いがありながらも、Mさんの知識やアジテーション力を買って一緒にうまくやってきたのがT先生で、「口先ばっかりで結局自分じゃなにも作れないやつが何をいう」(著作内でこういう言い方をしているわけではありませんが、まあそういうことかなと理解)という考えが根底にあるのがH先生。

個人的には自分もH先生寄りの考えを持ちがちですが、社会の中でうまくやっていくのはT先生のほうだろうなあと思います。なんというか、T先生は経営者タイプで、H先生は芸術家タイプ。どちらもそれぞれ偉大であって、どちらがよりよいとか悪いという話ではないと思っています。

なお、H先生の本を読むと、Mさんが自分の思い通りになるT先生を囲い込んで……みたいな妄想が広がっちゃいますが、T先生側の本を読む限り、T先生はT先生なりにMさんに多少批判的な視点を持ちつつうまくつきあう、というスタンスだったみたいですね。

Mさんは面倒くさそうな人っちゃそうですが、某ガイ●ックスみたいになってないだけ全然マシな存在かなと思ったりします。Mさんみたいな人が、企画屋さんとして仕事をしているのはよくある話ですし。

ただ、もし、Mさんが「漫画原作者になりたい」と宣言し周囲に働きかけていれば、あるいはいっそ漫画スタジオでも設立していれば、この絶縁へ至る問題は起こらなかったのかもなあ、などと思ったりします。

私が、T先生はそんなに悪くないと思うワケ

これは、T先生の本にはまったく書かれておらず、むしろH先生の本のほうに書かれていたこと、さらにはそこに寄稿されていたマネージャーさんの後書きを読んでそうではないかなと私が思ったことです。

H先生は、T先生たちから、彼女たちにも以前から見せていたはずの作品について盗作の疑いをかけられたこと、またその後しばらく少女漫画界隈で長らく彼女らからの盗作を疑われたことに憤慨しているようで、そこにけっこうなページを割いてらっしゃいました。

私はH先生は別に盗作はしていないと思います。

けれど、パクったといえばパクったんじゃないかなあという気がします。

なにをパクったかといえば、大泉やその周囲の人間関係で共有されていた、知識・空気感を、です。

大泉の中心人物のひとりであったH先生がそれをパクった、というのは少しおかしな話に聞こえるかもしれませんが、おそらくはT先生とMさんの印象として、H先生は彼女らが話していることに対し大して興味なさそうな様子だったのでしょう。しかしその実、H先生はそれらの知識や空気をすべて吸収し、おしゃべりなどという形で無駄な排出をすることなく、それだけに誰より早く消化・吸収して自らのものとし、自作に組み込んで発表してしまったわけです。

H先生が普段もっとそのあたりの空気の輪に入っていれば、この人もこれが好きと言っている、だからおそらく描くし、発表するのだろう、と予想もできたのでしょうが、漫画家として偉大な才能を持っているがゆえに表現のほとんどを漫画という紙面でしかできないH先生(勝手に言ってますけど多分そう)。それで周囲は、あの人興味ない風をよそおってたのにパクられた! という気持ちになってしまったりしたのかな、と。

H先生は、他の人のように、これが面白い、あの本がいい、この映画がいい、という話を出すことはなく、皆の話を吸収するだけ吸収して出すものはすべて漫画作品、という状態だったのではないかと推測します。周囲は交流を期待しているのに、その実自分の知識ばかりが一方的に吸い取られ、それがすべて作品として世に出したH先生の評価に繋がり、自分には何も残らない、というような気持ちになってしまったりするのではないでしょうか。(とは書いてないけど私ならなるな、と)

H先生のマネージャーさんが寄稿されたあとがきに曰く、H先生は目で見たものを覚えていて(写真記憶ですね)すぐに絵にできるそうです。加えて、モチーフを咀嚼し己のものとする力が強い。そして絵を描き続けることに一切苦痛がない。まさに漫画家として天与の才を与えられています。

いっぽうで、T先生。「少年の名はジルベール」を読んだ時に驚いたのですが、T先生は思っていた以上に計算で漫画を描くタイプです。「バクマン。」のシュージン、あるいは本宮ひろ志の自伝あたりに似たものを感じます。そして計算して漫画企画を立てる人は、とにかく「読者が驚くもの」を取り入れたがり、それはすなわち「これまで漫画で描かれてこなかったもの」と重なります。斬新な題材。度肝を抜く展開。タブーへの挑戦。たとえばそんなもの。

H先生は「T先生とMさんは少女漫画で少年愛を描くはじめての作家になりたかったのに私がやってしまったので、それで嫉妬されているのだろう。それを排他的独占欲と名付け、自分は以後ふたりの排他的独占欲に抵触しないように生きてきた」という主旨のことをかいていましたが、私の感想としては近いけれども違います。多分そんな難しい話ではなく、T先生からしてみたら、ただでさえ漫画力や周囲からの評価で叶わないと思っていた相手に、長年温めていた企画までモチーフパクされて(しかもT先生の主観からすると、H先生は編集者からの評価が高かったから自分たちより先んじて発表できたわけで)、もう距離をおくしかない、となったのではないでしょうか、と。

少年愛、というものだけではなく、全寮制男子校、そこに漂うように存在する儚い少年たち、欧州の空気感を感じさせる画面、詩的で音楽的な作品、それらすべてが新しい「風と木の詩」だったのに、「トーマの心臓」に先んじられた。このまま付き合いを続けると、他の企画まで無邪気にパクってくるのではないかという恐れ。漫画の天才であり常時発表可能な場を持っていたH先生には、作品の質でも発表のスピードでも叶いません。

ではH先生がパクリ犯で悪なのかといえばそれも難しいところで。おそらく当時の大泉周辺ではとにかく交流が盛んで、知識や、ものの考え方やら、漫画技術やら、お互い影響しあい、それが作品にも反映されるのが当たり前だったのでしょう。T先生とMさんが温めていた企画、といっても、周囲で飛びかうおしゃべりとおそらく当時は区別がなかったのでしょうし、それを無邪気に自分のものにして描き、世に発表したH先生の行動を、パクリ認定するのは少し違うのだろうなと思います。T先生もMさんも冷静になってみればそれがわかっての、盗作追求撤回からの絶縁宣言だったのではないでしょうか。

そこで……もしも、Mさんが、はじめから「これは自分の作品として世に出す予定。それを描いてくれる漫画家を探している」というスタンスで少年愛やら全寮制男子校やら欧州趣味やらについて語っていたら、おそらくH先生はそのジャンルを描かないか、少し違うけど似たものを自分も描くよ、という断りくらいはいれていたのではないかと思います。

……いや、でも、やっぱり自分のものとして勝手に消化して描いていたかもしれないですね。

H先生、漫画マシーンみたいなとこあるみたいなので。

うーん。

最後に

どちらにも理があり、どちらにも非がある。だけどどちらも悪くない。自分としてはそんな印象でした。

作中の編集者さんが言っていたように、そもそも同居するには無理がある二人ということだったのかもしれないですね。

なお、どうやらT先生のほうは再びH先生と交流を持ちたがっているようですが、H先生のほうは完全拒否ですね。個人的には、お互いすでに少女漫画界に不滅の金字塔を打ち立てているわけですから仲良く並んでいるところを見てみたいな……おふたりの知る少女漫画の歴史についての対談とか読んでみたいな……亡くなられる前に顔突き合わせて当時の答え合わせをやってもらうわけにはいかないのかな……なんて、読んだ後でも思ったりしますが

つうてもまあそれを「大泉サロン!」みたいなキーワードくっつけられた銭ゲバの香り漂う流れのなかでやってほしいわけではないので、やっぱり大丈夫です! ハイ!!

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