ハリーポッターは4巻で挫折した。主人公のハリーをはじめとした魔法使いたちが魔法の使えない「マグル」を妙に下に見ている感じがしたのが鼻についてどうしても読み進められなかった。マグルは魔法使いを差別しているが、それは恐れから来るものだ。いっぽうで魔法使いたちはマグルを「魔法の使えない人たち」と、自分たちだけが行使できる不思議な力を使って嘲笑っている。そういう感じがした。
この本の彼らがいう「世の人」もつまりは同じニュアンスだ。この宗教に入っているひとと話したことがある。普段は普通のひとなのに、この宗教の話になったとたん顔つきやら話し方やらが急に変わるのが正直気持ち悪かった。特別な教えを学び特別な神に認められている特別に幸せになる権利を持った私たち。とても賢く特別な知識と権利を持っている私たち。周囲にはたくさんのそれを知らないかわいそうな人たち。自分たちの教義を否定するひとたちは、神の教えをまだ理解できない段階にいるだけ。異論を挟む余地はないし、他宗教との「議論」は世に言う議論ではなく、ただ彼らの「説得」。理論的な矛盾や科学的事実との齟齬をつかれると「自分もまだ勉強中だから」「神のお考えは理解できない」「それはサタンのもの」「あなたもいつかわかるから」で、哀れみと慈愛っぽさを表現した表情とともに議論は打ち切り。結局のところ彼らの論拠は「神は絶対に正しい。ゆえにそれを信じている私たちも信じていないあなたよりは正しい」なのである。最強すぎる。
聖書というのはその昔人間社会がめちゃくちゃだった頃の人間啓蒙の手段だ、という話を読んですごく納得したことがあるのだけれど、ひいては宗教が必要だった理由もそこに求められると思われ、けれど信教の自由が保障され社会規範が宗教と切り離されている現在、その役割は薄まっている。とはいえつまるところ宗教というのは人を救うためにあるので、それを信じている本人さえ幸せなのならばいいのだと思う。人間は悲しいもので、隣の人が自分より幸せそうだと不幸を感じるという。けれど万人が平等というのは誠に難しい。そんなとき、資本社会的基準でどんなに不遇でも、本人が信じる宗教のなかでは高みに上り詰めていて幸せだ、というのならそれはそれで宗教の存在が社会全体の幸福度をあげることに貢献している。
ただ難しいのは、親が信じていると子供も必然的にその宗教に入れられてしまうこと。この本のなかで「ムチで打たれた」というのはなかなか衝撃だったが、そのあたりは宗教だけではなく時代背景もあり、その昔は宗教関係なく体罰が横行していたわけで、おそらく現在では宗教の名目があろうがなかろうが児童虐待案件になると思う。ただ、例の輸血拒否事件は今でもどうなるかなってのは正直わからない。それがまったく合理的でなくても科学的でなくても、客観的にはむしろその人にとって害悪をもたらすものであっても、人には信じたいものを信じる権利がある。いわゆる一般的な社会通念がこの先も絶対的に正しいものであるとは誰にも言えないし、そもそもその「一般的な社会通念」も、聞く人によって微妙に違っている。子供は、小さいうちは、親が信じる「社会的な正しさ」に巻き込まれざるを得ないわけで、親が信じる正しさがこうやって極端なほうに走っていると後から色々噴き出してくるわけだわな。
ちなみに宗教つながりで「カルト村で生まれました」を思い出したんですけど、カルト村のほうは、なんだかそれはそれで楽しそうだなって感じではありました。色々つらかったことなども書かれているけれど、ガチの虐待話とか読んだ後だと、親も子も相互に監視の目が働く共同体っていうのはむしろ理想的ではみたいな気すらしてくる。農作業も楽しそうだし。搾取される前提でなければ。こういうのはほんと、難しい。
宗教話は書いていて色々難しいので、なんだかあやふやなまま、終わります。自由というのは難しいものだね。