洗脳ってコワイなあとしみじみ感じさせてくれたこの一冊。よかれと思って、いい人だと思って、信じて着いて行った先はまさに地獄。
何よりコワイなあと思ったのは、スピリチュアルな要素を除くと、意外にもまっとうな自己啓発本に買いてあるようなことが組織側のやり方・言い分に含まれていたこと。感覚だけではなくいちおう「まっとうな自己啓発本」の中では一番市民権のありそうなこれ↓↓↓
読み返してみたけれど、けっこうな勢いで彷彿とさせる内容があって本当に怖かった。似ているっていうか、微妙に解釈が違うっていうか、都合よく解釈して、あるいは曲解して、人になにかをやらせる時に都合よく聞こえのいい言葉として使っているとか例えばそんな感じではあるんだけど。
特に、本文に至る前の序章的扱いである「インサイド・アウト」という箇所によくその類似が見られたので、まとめていきたいと思います。
ちなみに以下、引用扱いでないところは私が勝手に(多少の悪意を持って)まとめたものなので、元のまともな言い分とは少しずれている場合もありますがご承知おきを。
<社会的評価よりも優れた人格を持っていることのほうが偉大である
洗脳主催者が言っていたことがまさにこれですね。彼は社会的にはToshlよりもはるかに知名度もなく金銭的収入も少なかったわけだけれど自分は人格的に素晴らしいからToshlよりも上なんだと主張し、Toshlもそれを信じてしまった。その後も、Toshlは自分の知名度や歌手としての実力をちゃんと把握していたけれど、ただ自分は人格的に劣っているという一点においてのみ、洗脳主催者が自分の上に立つにふさわしい人物であると思い込み続けた。
MASAYAのような自我が薄い人が使うお金は美しく、地球に貢献する美しいものを想像し提供する
僕のような自我が強い人間が使うお金は地球を破壊するものとなる。
社会的評価が高いからといって人格が優れているわけではない、というのは確かだと思いますけれど「俺はお前より人格が優れている」と他人に対し主張する人って、その時点で人格最低だと思うんですが…ああ、彼の場合、自分では言わずに取り巻きに言わせていたのかな? でもそれを前提とした主張がまわりにはびこっているのを放置している時点でアウトですよね。
パラダイム≒バイアスと解釈してます。
7つの習慣より。
パラダイムという言葉は(中略)平たく言えば物事の「見方」であり、物事をどう認識し、理解し、解釈しているかである
私たちは、世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままの世界を見ているのであり、自分自身が条件づけされた状態で世界を見ているのである。
自分のものの見方を理解し、それが膠着的であることを理解し、時にものの見方を変え、多様な視点、多様なあり方を獲得し選びとっていく。
大事ですよね。
「洗脳」でもそんなこと言ってました。
高熱出してセミナーを欠席しようとしているToshlに(後から思えば頭ではなく体はわかっていて拒否したんでしょうね、きっと^^;)、出席してほしいスタッフからのこんな檄が。
「今、自分で決めてください。今決めないのがあなたのパターンです。その自分のパターンを今、突破してください」
……でも、健康も大事じゃないかなあって^^;
<世の中には正しい「原則」があるがそれを理解している人は少ない。あまりに理解が低いと社会は分裂し滅亡へ向かう
7つの習慣で挙げられている原則は、「誠実」「正直」「人間の尊厳」「奉仕」「貢献」「本質」「美徳」「可能性」「忍耐」「養育」「励まし」など。
いやあ…不穏な言葉が並んでますね。
大事なことだとは思いますよ。
自分で心がける分にはね。
それを人に強制されるようになるとおかしなことになりますよね。
Toshlは、本質的でない自分に悩み、自分のせいで洗脳組織の子供たちの養育のお金が稼げなくなったと信じ込み、励ましという名の罵倒に晒されながら、過酷な生活を忍耐して得た億単位の金を奉仕し、それが彼なりの美德だと信じていたわけで…
本質
「本質的なことより、自分のエゴの仕事の方が大事なんですか?」
貢献
「万物に貢献するためだったら借りてでもお金を作らないとダメだし、みんなそうしてきたんだよ! ともかく消費者金融でもどこでも行って金を借りて持ってこい!」
可能性
「もう俺はメジャーのフィールドになんか出たくなかったが(中略)この楽曲を世に出し、多くの人に聴いてもらうことで、多くの人が本質的に生きようという方向に向かう可能性がある。おまえの歌は自我が強くて最悪だが、楽曲自体にはそういう美しいエネルギーが入っている」
<コミュニケーションではまず自分が聞き、相手を理解することが肝要で、それには我慢強さが必要だ
つまり、コミュニケーションがうまくいかないのは自分が悪いってこと。
自分が聞く側になり、相手を理解できれば、人間関係がうまくいくってこと。
だが、そのような疑念も、(僕の自我が強いせいで、MASAYAの本当の深い思いを理解できない自分が浅はかなのだろう)と思い込んだ
理解…な…
これで最後。
Toshlは洗脳に至るまでは、いや、至った後も、強制的になにかをやらせられたわけではなかった。いや実際のところはたから見れば、暴力を使って脅したり、あるいは社会的に孤立させてからの唯一の心の拠り所である妻からの言いがかりなど強制もいいところなのだが、本人は暴力や暴言は自分が悪いから仕方がないものと思い自分の行動は主体的に選んだものと思っていた節がある。
いっぽうで洗脳前、妻は
(次兄について)自分の思うように弟を操り人形にしたいだけ
お母さんは子供を自分の所有物だと思っている
などなど、自分について批判的な見解をToshlに吹き込む存在をToshlをコントロールしようとしている悪いやつだと吹き込み、彼らに背くことがToshl自身の意思を貫くこととあたかもイコールであるかのような精神的土壌を形成していった様子がうかがえる。
さらには、まだ洗脳して日が浅い頃、自分たちの意思に背く行動をToshlが選ぼうとした際に洗脳組織の主催者が
ここで兄貴と戦ってやっつけなかったら、一生兄貴の奴隷になるぞ
と、はっぱをかける。
彼の主体性を奪い奴隷化しているのは、それを言っている彼ら自身に他ならないのに。せっかくToshlは、一度は主体的に判断したのに。この一言で、このままではあいつに主体性を奪われるという詭弁にのって、結局彼らに自ら主体性を譲り渡してしまった。
そのことに、Toshl本人は気づかなかった。
まとめ
今回、7つの習慣を読み直しながら書いたんですけど、ちょっと導入部は宗教くさかったけれど書いてあることそれ自体はけっこう素晴らしいと思います。ここで褒めすぎるとなんか私も「7つの習慣」に洗脳されてる人っぽくて怪しくなるからほどほどにしておくけれども、ちゃんと読めば、洗脳組織の言っていることやっていることとはもちろん全然違うってのがわかります。
ただ、なにより違うのは、それを「自分で心がけよう」と呼びかけているだけなのか、「お前はこれができていない、ここまではできている、もっとやれ」とその理論を背景に人を分類し管理しようとしているのか、ということ。
自分に自信のないときというのは、こういうことを教えてくれる人を頼りたくなるのはわかる。こういうことを背景に自分を褒めてもらうと嬉しくてもっともっという気持ちになるのもわかる。
でも、人の心や生き方なんて、他人が簡単に評価したり指導したりできるようなものじゃない。
それを「自分はわかる、指導できる」と言っているような、言葉としては言っていなくても態度でそのように示している人は、どこかおかしい。
十分注意したほうがいいってことですね。